・考えるということ(我思う故に)

 いやー今年も残すところ後わずか、みなさん今年はよい年でしたか?喜びの絶頂だった人も、悲しみのどん底だった人も、去年となんら変わらんという人にも、生きていたなら等しく来年は訪れます。亡くなった方はご冥福をお祈りします(サダム・フセイン含む)。
 自分はね、もう今年のことは忘れた。ワールドベースボールクラシックの優勝も、ワールドカップドイツ大会の予選リーグ敗退も、トリノオリンピックの金メダルで荒川静香アゴがシャクレきった瞬間も、今はもう、はるか昔。気分はいつも前へ、前へ、今なら明大ラグビー部のフォワードにも勝てる気がする。ま、大手三行金融グループの公的資金も完済したことだし、来年こそは好景気へtake offだ―――――っなんてね♪
 ていうかね、もういい加減そろそろ景気回復してくれないと困る。ちょっとはこっちの事情も考えてくれ。支配者たちよ!


 さて2006年最後の今日は『考える』ということについて考えてみたいと思います。だってそれこそがこのブログのメインテーマ。フェルマーの最終定理に挑んだアンドリュー・ワイルズのごとく、私もこの主題に正面から挑みたいとおもいます。まあ挑んで答えを出したところで特に意味ないのもワイルズとそっくり(言い過ぎ)。
 でもどっちかっていうとデカルトとかパスカルとかの分野か。哲学っぽいモンね。でもそんなん期待されても人間の根源に迫る気なんかないから安心して。それとも裏切っているのか、期待を?
 でも『考える』ことは物心ついたころから誰でも普通にやっている。「今日の夕食はなんにしよっかなー」とか、「どんなテレビを見よっかなー」とか。『考える』とは、別に難しい勉強するとか、人生を模索するとかそんな特別なことだけでは全然ない。とはいえ、物事や予想される結果をあらゆる方向から常に考える人もいれば、ほぼ無意識に、似た様な経験をもとにあまり深く考えずに行動する人など、その思考のアルゴリズムは人によってさまざまだ。
 でも大人になっちゃうと、物事をどのように理解し、又、行動すべきかを決める場合、それは習慣に基づくものがほとんどだ。なぜそうするのかという理由を、あらためて考えることはあまりない。それを分別がつくと人はいう。また本や雑誌に書いてある言葉をそのまま信用して、納得してみたりもする。告白すると、みんながそういっているから、きっとそうなんだろうという思考は、まさに自分が日頃から行ってしまっている思考方法です。そしてそれを根拠に他人を非難してみたりもする。もちろんそれが絶対に悪いと思っているわけではない。歴史や先人に学ぶとは、きっとそういうことかもしれない。
 だから人は経験したことのない初めての事態に遭遇したとき、悩んだり、迷ったり、不安になったりする。そして必死に考える。そうして導き出した答えは、実行すると予想していた結果と違ったり、他人から非難されることになるもしれない。あるいは結局、答えなんて見つからないかもしれない。だれかの考えに従ったほうが楽な場合もある。


 それでも考えることは重要だと思うのだ。常識だと思っていたことも改めて考えてみると間違っている可能性もある。何度考えてもしょうがないことでも、もしかしたら別の解決策が見つかる可能性もある。考えるのをやめるなんて敗北と同じだ(言い過ぎ)。
 命題に対する解は真か偽のどちらかですが、人間の社会はどちらかに割り切れるほどそんなに単純ではない。人生にはきっと正解なんてない。『世の中には幸も不幸もない。ただ、考え方でどうにもなるのだ。』 by ウィリアム・シェイクスピア
 シェイクスピアの言っていることが正しいとは思いませんが、やはりプラス思考はとても大切なことだと自分もおもう。だって楽しく生きたいからね。世の中を嘆くには人生はあまりに短い。人として生まれたからには、たぶん死ぬまで続く思索の連続なのだ。だから来年も前向きに考えてみるつもり。でも、だからなんだって話です(笑)。


それではよいお年を。


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